待たされることと待つことと

現在わが家には小3、小6の引きこもりの子供達がいる。高1の長女は6年間の不登校の後、県外で1人暮らしをしながら通信制高校に通う。

時々、私が引きこもりの子供達に対して苦しくなる理由。

待つことに疲れてくるからだと思う。

何を待っているのか。

・前向きな変化を待つ。

・動き出すのを待つ。

・元気になるのを待つ。

・何か、言い出すのを待つ。

・笑顔になるのを待つ。

・外とつながりたい気持ちになるのを待つ。

提案はできても、本人がその気になるまで待つしかない。

私の苦しさの原因は「待たされている感」なのかもしれないと、以下の本の言葉を聴いて思った。

Audible『水の中の哲学者たち 永井玲衣』

「待つことはつらい。ただし、待たされることを待つことと捉え返すとき、それは、決断と主体性を帯びたものになる。急ぐことを拒否する態度になりうる。待つことは目を覚ましていることだ。苛立ち焦りを感じながらも、それを注意深く拒むことだ。」

「待つ」と覚悟を決めることで、「待たされている感」ではなく、前向きに現在の状況を捉え直すことができる気がした。

逃げるが勝ち

次女と一緒に習い始めた空手。

今は次女は辞め、私だけ習っている。

同じ教室に次女と同じクラスの子もいる。

まわりは全員小学生。

空手後、お母さんたちの話題に入るのが嫌で、逃げるように帰っていたのだけど、今日は逃げ遅れた。

PTAの役員の話て盛り上がっている。

突然「◯◯小学校(次女の通う学校)はPTAないですものね」と、次女と同じクラスの子の母から話題をふられた。

学校に行ってないからそんなことはわからない。

私「子供が不登校で、学校のことあまりわからないんです。」

「そうなんですか。」

と、すぐに違う話題に戻っていった。

次女の不登校を知らずに話題をふったのか、知っていて話題をふったのかはわからない。

不登校を知らないとは考えにくい。

モヤモヤする。

知っていて話題をふったとしたら、傷つけようという悪意を感じる。

傷つけてやりたくなるくらい私が元気そうに見えていたなら、それはそれでよかったとも思う。

そして、学校の話題をふられて、ヘラヘラ笑っていられるほど私は振り切れていないし、熟してもいないことに気づく。

不登校親の会へ行くと、子供が不登校にも関わらずPTA会長をしていたというお母さんもおられる。

私は今のところ、そのような境地には至っていない。

相変わらず傷つきやすい。逃げるが勝ち。デンジャラス地帯はできるだけ避けながら日常を送りたい。

まずは、空手が終わったらダッシュで逃げ帰るところから始めよう。

 

悪いことには良いことがついてくる

3ヶ月前も前の話だけど。

にんじん畑でにんじんを栽培する農家の方と話をした。

商品にならない形の悪い「にんじん」は、福祉施設の方に、無料で持って行ってもらっているとのこと。

にんじんジャムになり販売されていて、なかなか美味しいとのこと。

農家の方の人柄、静かなにんじん畑、気持ちの良い秋の空が私の口を軽くしたのだと思う。

聞かされた相手の気持ちを考えることもなく、

「子供3人が不登校なので、福祉関係、興味あります。どこにある福祉施設ですか?」

子の不登校を公開した。

「えー!3人不登校。それは大変だわ。でも、良いことには悪いこと、悪いことには良いことがついてくるって、家のばあちゃんよく言ってたわ。」

その言葉に励まされた。

もう一度、その言葉を振り返ってみた。

不登校=悪いこと』とすると『良いこと』は・・

・色々な人の痛みが少しは想像できるようになったこと(できたところで何てことはないけれど)

・これまで正しいと思っていた働き方(残業が美徳。滅私奉公)を見直せたこと

・心と身体の健康管理をより真剣にできるようになったこと(超健康じゃないと、日常が送れないため必然的にそうなった。のだと思う)

うん。「悪いことには良いことがついてくる」

その通り。農家さんありがとう。

 

 

未熟人間と気づく

小3の次女は夏休み明けから不登校

バレンタインの日、2組の次女の友達と、そのお母さんが手作りのお菓子等のプレゼントを持ってわが家を訪ねて来てくれた。

照れながらも、何とか玄関でプレゼントを受け取る次女。

次女のために時間を作ってくれたのだなと思うと嬉しいやら申し訳ないやら。

1組の親子は、ダウン症の幼いお子さんを連れていた。出かけるだけでもエネルギーがいるのではないかと思う。

私が、逆の立場だったら同じように不登校の友達を気遣うことができただろうかと考える。

間違いなく、できなかっただろう。

「余裕がない」を言い訳に自分の日常を優先していただろう。

本当は、余裕がないのではなく優しさや思いやりが不足しているだけなのだけど。

さらに正直に言うと、不登校に巻き込まれなくないから、不登校の子とは距離を置きたいと思ったかもしれない。

私は、今のところ、身近な誰かを気遣って行動を起こすことが苦手な未熟な人間なのだろう。

次女の友達親子のような温かさに触れながら、未熟な私も成熟した人間に近づいていけたらよいなと思う。

不登校・引きこもりは子供の課題であって親の課題ではないby岸見一郎

夏休み明けから不登校となった小3の次女。

ほぼ、引きこもり状態だけど、月1回一緒に映画を見ている。

映画の帰り、天気が良かったので一緒に歩いた。家まで1キロ弱。

次女は途中で、足が痛いと言い出した。普段外に出ることも、歩くこともないから、筋力、体力が衰えているのだろう。

なんてこったい。生きていくには体力も必要なのだが。と急に不安になった私は、つい、

「◯◯、(次女の名前)将来のこと不安になったりする?」と聞いてみた。

次女「不安じゃない。何とも思わん」

私「体力なかったら、できること限られるかもしれないけど不安じゃない?」

次女「不安じゃないけど、何をするのも面倒で動きたくない。家にいたい。」

私「例え、仕事できなくても生活保護を受けて生きていくこともできるから」

と不安じゃないと言う次女に、完全に自分向けの意味不明の回答をしてしまった。

将来への不安で苦しんで泣いている長男も心配だけど、将来を不安と思っていない次女も心配だ。

「ほめるのをやめよう リーダーシップの誤解 岸見一郎」

エネルギーのない部下にどう対応したらいいかの質問への回答として、不登校・ひきこもりへの対応が例として書かれていた。

・まず、不登校や引きこもりは子どもの課題であって親の課題ではない。

・エネルギーがない人からエネルギーを引き出すのはかなり難しい。

・まわりの人ができることはあまりない。

・エネルギーがない人はかなり長く待たないといけない。

・私が直接何かの力になれなくても、やがて自分の課題を自分で解決する力があると思って見守るしかない。

・必要があればいつでも関われる状態で、あえて手出し口出しをせず少し離れてみる。

結論、心配しても仕方がない。長丁場を覚悟で、私は私で自分の人生を生きることにしよう。よしっ、明日からも勉強、空手、水泳、自分のやりたいように時間を使おうっと!

家政婦つきの家に住む夫

私は、家事は嫌いではないし、おかげさまで、ワンオペ育児をするなかで効率的に家事をする方法も得とくできた。

しかし、家政婦(私)つきの家に無料で住んでいる夫には納得がいかない。

20年近く仕事人間だった夫に今更家事分担を希望しない。別にいい。

にしても、夫はラッキー過ぎるだろと思う。

夫婦、ほぼ同額の給与だが、夫は無料の食事、片付いた家、洗濯された服を享受している。

今朝、夫にその旨伝えてみた。

「家事はやりたくてやっているから、いいのだけど、不公平感がある。今更、家事をやってもらおうとは思わないけど、お金の代償があれば不公平感はなくなると思う。」

夫「確かに。お金払うわ」

我が家は夫婦別会計。そもそも、誰もお金の管理ををしてこなかったことが問題なのだけど。

その根本問題は置いておいて、こんなにすんなり了解してくれるとは。

家事の制約がなく自由な夫への腹立たしさは、不公平感だったと気づく。

そして、その不公平感はお金で解消ができる。しかし、これまで、お金を要求できなかったのは、お金を要求する卑しい自分が受けいれられなかったからだと気づく。

専業主婦の母に育てられた私は、夫に尽くすことが美徳と思い込んでいた。

夫婦ではなく、単なる共同生活者の夫に家事負担のお金を要求することは、卑しくはない。

私の母は、外で働く父を尊敬さへしていたが、私と夫はそのような関係でもない。

前提条件が違う中で、刷り込まれている思いこみ。思い込みだと気づき、現状の生活を不満のないよう改善していけたらと思う。

 

障害児のお母さん達が神々しく仏に見えた

「安静にできない病」のため、筋を切った足はなかなか完治せず、開き直って数週間前から泳ぎ始めた。

https://warajirun.com/entry/2024/01/05/063340

思いっきり泳いでも、足に負担をかけることはないだろう。

先日、隣のコースで障害児の親子がプールのレッスンを受けていた。身体に障害はないけど、挙動から障害のある方々と気がついた。小学校高学年から中学生くらいの子供達。

更衣室で障害児のお母さん達と一緒になった。私は着替えながら、その話に耳を傾けていた。

「〇〇養護施設に入ることになったから、パートの場所を、その近くに変えたよ。」

「今日は、プールに来れたけど、その日の気分だからね。次来れるかはわからないんだよね。」

驚いたのは、お母さん達が明るいことだ。

話の内容とは裏腹に、言葉のトーンに暗さはない。

これまで、色々な葛藤があっただろうに、明るく気丈に生きておられれる障害児のお母さん達が神々しく仏に見えた。

子供以外のことで、自己肯定感を保つ術しか知らなかった私とは大違い。

障害児の子供と過ごす日常を受入れ、当たり前すぎて誰からも感謝されることのない日常と折り合いをつけながら生きてこられたのだろうと勝手に想像する。

障害児を抱えながら、明るく気丈に生きるお母さん達、表彰もの!

感動と勇気をもらった更衣室での出来事でした。